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飽きたから

飽きたからです

何で出来ているか、という話

自分が何で出来ているかという話。

 

初めて買ったCDを覚えているだろうか? 俺は未だに鮮明に覚えている。

近所に出来たTSUTAYAでワクワクしながら、買うことを決めていたにも関わらず無意味に試聴機で視聴してから買った「ポケモン言えるかな?」。

 

自分の意志で、自分のお小遣いで、自分のモノを買うというのは、とても勇気のいることだった。

ゲームやおもちゃ。スーファミのドッジ弾平や、新しいベイブレードを買うときも、恐る恐るだった。どうしても欲しいという気持ちと、母親に怒られてしまうのではないかという気持ち。

もしかしたら他にもっと良いものがあるのではないかという気持ち。

ものを買うというのは、それらを全て乗り越えて初めて辿り着ける行為なのだ。手に入れるということは、何者にも変え難い喜びなのだ。

 

CDを買うとき、それが全く無かったのを覚えている。

「買うものだ」と思っていた。何でだろう? 未だに疑問だ。

 

バンプBUMP OF CHICKENをフラッシュで知った。すぐにCDを買いに行った。

ELLE GARDENを知った。GOING STEADYを知った。ケツメイシオレンジレンジマキシマムザホルモン。色んな音楽を知った。

記憶は人格を作る。知ってしまった俺らは知る前にはもう戻れない。

好きになったもので俺らは出来ているし、これからもそれ以前に戻ることはない。

 

ZABADAKを知ったのはいつだっただろう。

ウォーターガーデンというアルバム。ポーランドという曲。わにのゆめという曲。

死ぬことはないし、生き続けるとも言わないけれど、でも、多分ずっと大好きなのだ。

そういうものだ。

 

ううん、まとまらないけれど、

そうなのだ。俺は俺じゃないもので殆ど出来ているので、

そういうものなのだ。

 

愛するものはずっと愛していきたいと思うのだ。多分ずっとだ。

時間が経てば忘れる話

毎日つつがなく積み重ねた記憶が今現在の人格を形成しているとして。

夏が来て、冬の寒さを忘れてしまった俺らは、
冬が待ち遠しいなんて呟いて、
冬が来て、夏の暑さを忘れてしまった俺らは、
夏が待ち遠しいなんて呟くのだ。

少し忘れっぽい性質は、俺の人格にどこまでの影響を与えていくだろう。
わからんけど、それも面白いだろうが。

世界は記録で出来ていて、模倣子以外の媒体が生じうる余地がある。
とは、何で読んだんだったか。
meme, 記録を保持してくれているのなら、何て救われる話だろう。
成し遂げられなくたって、何も残らなくなんてない。
生き続けるのだよ。おやすみ。

全く関係のない話

ネコフェスという愛の夜、超楽しかったにゃあ。

愛する人達が沢山いて、普段飲まないお酒も飲んで、幸せだったらありゃしない。


全く関係のない話、俺は最初ギターが弾きたかった。
ていうか、ベースなんて楽器の存在を知らなかったし、全部ギターだと思ってて、
間違えてベースを買ってしまった。教則本も一緒に買って、いざ弾くぞって時になって弦が少ないことに気付いたのだ。
それから俺はベーシストで、かれこれもう12年もベースを続けてる。人生の半分以上。

楽しいことは案外向こうからちょろりんっと転がってくるもんで、
懐かしい記憶も楽しかったことも全部塗り替えていけるのだ。
地上にも星空はあったのだ。

ついつい饒舌になってしまって、
この人には心を開いているんだね、
なんて言われてしまって、
全方位オープン型のハートを目指していきたいなあと、思っちゃいますね。

カレー食おう、カレー。
みんなカレー食おう。さよなら。おやすみなさい。

愛せない音楽の話

音楽を聴いて、自分はこの音楽は好きではない、愛せない。

なんて思うことはそりゃもう、よくある。

しかし落ち着いて周りを見渡してみると、その音楽を好きだと、愛しているという人も多数いる。

つまりその音楽は「自分にとって」愛せないものであっただけ。

まあ、好きなものや嫌いなものについて自分自身以外のことを中心に考えることはあまり良くないことかもしれないけれども、それでもこうして一度考えてみても良いんじゃないか、と思った次第。

別に誰かに押し付けたい訳でもないし、これが答えだとも思っていない。

けれど何故、「愛せないのか」を一度考えてみたい。

 

理由は色々ある。声が好きではないとか、演奏が好きではないとか、そもそも曲が好きではないとか、何となく気に入らないとか。

ここまでは良いとしよう。自分の好き嫌い、感性に合わなかっただけ。

 

他にも理由はある。

聞き飽きた展開だとか、何かの模倣だと感じたりとか、何番煎じだ、と思ったりもする。

これについて、今回は少し考えてみる。

 

 

「聞き飽きた展開」「二番煎じ」というのは、基本的に聴いている側の知識の広さ・深さから湧いてくる感情であると思う。

音楽を面白いと思い、色んな音楽を聴いて、知識を広げ、知識を深く持てば持つほど、知れば知るほど、今聴いている音楽の印象は「過去に聴いたことのある音楽の印象」に左右されるようになっていく。

既知のものを上に被せ、透かして見るような感覚。

先の展開を、メロディを、その盛り上がりを予測し、期待し、挙句の果てには比較し「あれのオマージュ」「これのパクリ」と囃し立て、

分析し、思考し、「良い」か「悪い」かを決める。

別にそれはそれで良いし、面白い。実際自分はそうして音楽を聴いていることが多い。

でも、初めて音楽を好きになったときの衝撃には、それではいつまでたっても敵わないんだろうな、とも思う。

 

予測、期待、比較、分析、思考、

つまりは「理性」。

 

アルコールを摂取した状態で音楽を聴くと、どっぷりつかれる感じがするのはそういうことだろうか。

 

また、一度「愛せない」と思った音楽と同じゾーンに分けられている音楽を、無条件で拒否している、ということは無いだろうか?

実際のところ、これに関しては本当に判らない。が、逆は「ある」と即答できる。

好きだと思った音楽に似た音楽は、無条件である程度好きだと言えてしまう。

ならばもしかすると、そういうこともあるかもしれない。そんなつまらないことも、あるかもしれない。

だとしたら、音楽に対して「これはつまらない」と感じるのは「つまらない自分のせい」である。

 

定型化されたことばかりしているな、と感じたのであれば、

「定型化されている」だなんて認識するくらいそういう音楽に触れる前に聴いていれば、好きになっていたのかもしれない。

それはとても悲しい。

 

知識を広げることは良いことだ。

しかし、知ってしまったなら、知らなかった頃には戻れない。

いつの間にかその知識を以ってして「既に知っている何か」を前提にして、でしか音楽を語れなくなっていたら、それは本当にその音楽に対して感じたことだと言えるのだろうか。

自分にはどちらとも判らない。真っさらな状態で音楽を聴けるようなスイッチがあれば良いのに、と心から思う。

 

 

本当に良いものは一握りだ、なんて絶対に嘘だ。皆が愛した音楽はそんな斜陽の世界じゃない。

 

本当は誰だって、全部最高だと思いたいはずだ。

面白い方が、面白いんだから。

残念ながら知識は不可逆的で、もう私達の眼鏡は元の透明なレンズになんて戻らない。

だからと言って、嫌いなものを好きだという必要もない。

しかし、好きなものに対して、胸を張って好きだと言う為に。

また、少しでも好きなものを増やす為に。

嫌いなものにもう一度真剣に向き合ってみるのも必要かもしれない。

そういう話。

ゴリゴリのゴリラの話

たまに思う。

どんなに偉い人も、威張り散らしてる人も、
金持ちもイケメンも、
誰かが殺したがってる誰かも、
ゴリゴリのゴリラの前では無力だ。

なんやかんやと言っても、暴力は怖い。マジで怖すぎる。
ゴリゴリのゴリラが目の前に現れても、他の人に対するのと同じように話が出来るだろうか。
ハルヒ見てないとか人生の半分は損してるわ」とか、ゴリゴリのゴリラ相手に言えるだろうか。

無理だ。
ゴリゴリのゴリラが「長門長回しとか同じ回何度も放送するとか視聴者を舐めすぎ」とキレることを想像すれば、そんなことは言えやしない。
もし言える人が居るとしたら、その人は相当な狂人か、その人も同じくゴリゴリのゴリラかだ。

ゴリゴリのゴリラ同士であれば、同等に会話が出来ると思う。
消失長門最高だろ」「いやいや、あれは既に長門じゃないから」といった具合。
これがもし、片方が普通の人間であれば、
消失長門最高だろ」「勿論そうで御座いますとも。いやはや流石のセンスで御座います」といったことになる。

ゴリゴリのゴリラは、その存在のみで、既に勝利しているのだ。

逆に言えば、人間は、その存在の時点で既に敗北している。

皆すべからく、既に敗北している。
だから、誰かのことを嫌ったり怒ったりして自分がつらくなる必要なんて無いし、嫌われたり怒られてつらくなる必要なんて無いのだ。

あの嫌なバイトの先輩も、嫌いな人も、
ゴリゴリのゴリラを前にすれば、全員即土下座だ。
だから大丈夫だ、何も気にしなくていいのだ。

ゴリゴリのゴリラはいつだって僕らを見守ってくれている。
だから思いっきり笑って生きればいいんだ。

熱狂の話

ねっ‐きょう〔‐キヤウ〕【熱狂】

[名](スル)非常に興奮し熱中すること。「ファンがライブに熱狂する」

 
1969年7月20日の熱狂。まだ産まれていなかった私は、その熱狂を知らない。
人生でいくつほどあるんだろうか、どれくらい見逃してきただろうか、熱狂の時間を。
 
  1. 私はゲームがとても好きだ。とてもとても好き。何よりも好きかもしれない。この世界に今存在する全てのゲームと、これから作られる全てのゲームを、全人生賭けてもプレイしきれないことが本当に悲しいくらい。物心ついたときから、ずっとずっと、より面白いゲームを探しながら生きてきた。より好きな、と言ったほうが正しいかな。よりワクワクできる、より意欲の湧く、よりバランスのとれた、よりドキドキする、より達成感のある、より笑える、より怖い、より可愛い、より泣ける、より素晴らしい、より熱狂できる、そんなゲームをずっと探している。今もそう、それは大量にあって、もしかしたら全てがそうで、それを私はプレイする。愛すること。"消費"することとは絶対に違う、より面白いこと。
  2. 私は音楽が好きだ。とてもとても好き。ゲームよりは少し好きじゃないかもしれない。ゲームは楽しむためにやってる、前提として一切の苦しみがあってはならない。音楽は、少しは苦しいと思うときがある。それも含めて楽しいと言えば、そう。自分の好きな音楽を聴いて、感動を探して、熱狂を求めて、youtubeにぶら下がって生きていく。CDを買って、ワクワクして家に帰って、待ちきれなくてすぐ封を開けて、不器用にディスクをセットし、一曲目が流れるその瞬間を求めて生きていく。
 
さて、
 
ここに熱狂を集めようと思う。
 
いくつもいくつもここに書き連ねて、自分の熱狂を、愛するものを、
 
きちんと確認していこうと思う。
 
そういう話。

人生を擬似体験することの話

「俳優って凄いよな、自分の人生で体験できないことをいくつも体験してて、

何周も人生をしてるみたいで、楽しそう」

 

みたいなことを、最近人から聞いた。

俳優、に関しては全くそんなこと考えたことも無かったんだけれど、小説やゲーム、「物語」のある全てのモノにそれは言えるような気がする。

私は物語がとても好きで、それがどんなに小さなモノであれ、愛したいと思う。

 

物語が終わるとき、なんとなく寂しさを感じたことはあるだろうか。

自分が世界から取り残されてしまうような、そんな感覚。

基本的に物語というものは私達の世界にまで広がりを持つことは無くて、閉幕を迎えればそこで終わる。

先も後も無く、物語は物語として始まり、物語として終わる。

では、それは何にも繋がらない、それだけで独立したものだろうか?

 

私は絶対に違うと思う。

物語に触れるとき、そこには自分の人生や、今までに触れてきた物語が前提として存在していて、それを以って対峙しているはずだ。

逆に言う。自分の人生に触れるとき、今までに触れてきた物語を前提として存在させて、それを以って対峙することも出来るはずだ。

自分の人生ではない人生を疑似体験し、涙することが出来るのだ。

誰かの常識や意志や思い出や感情なんて、これっぽっちも自分の人生に関係のないもののはずなのに、涙することが出来るのだ。

 

小説でも映画でも、漫画でもゲームでも、全ての物語は自分の人生に繋がっている。

アンパンマンから自己犠牲の精神を学び、桃太郎から仲間の大切さや勧善懲悪の心を学び、グリム童話から罪と罰を学んだ私は、

これからも物語から人生を学び続ける。そうありたい。