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飽きたから

飽きたからです

愛せない音楽の話

音楽を聴いて、自分はこの音楽は好きではない、愛せない。

なんて思うことはそりゃもう、よくある。

しかし落ち着いて周りを見渡してみると、その音楽を好きだと、愛しているという人も多数いる。

つまりその音楽は「自分にとって」愛せないものであっただけ。

まあ、好きなものや嫌いなものについて自分自身以外のことを中心に考えることはあまり良くないことかもしれないけれども、それでもこうして一度考えてみても良いんじゃないか、と思った次第。

別に誰かに押し付けたい訳でもないし、これが答えだとも思っていない。

けれど何故、「愛せないのか」を一度考えてみたい。

 

理由は色々ある。声が好きではないとか、演奏が好きではないとか、そもそも曲が好きではないとか、何となく気に入らないとか。

ここまでは良いとしよう。自分の好き嫌い、感性に合わなかっただけ。

 

他にも理由はある。

聞き飽きた展開だとか、何かの模倣だと感じたりとか、何番煎じだ、と思ったりもする。

これについて、今回は少し考えてみる。

 

 

「聞き飽きた展開」「二番煎じ」というのは、基本的に聴いている側の知識の広さ・深さから湧いてくる感情であると思う。

音楽を面白いと思い、色んな音楽を聴いて、知識を広げ、知識を深く持てば持つほど、知れば知るほど、今聴いている音楽の印象は「過去に聴いたことのある音楽の印象」に左右されるようになっていく。

既知のものを上に被せ、透かして見るような感覚。

先の展開を、メロディを、その盛り上がりを予測し、期待し、挙句の果てには比較し「あれのオマージュ」「これのパクリ」と囃し立て、

分析し、思考し、「良い」か「悪い」かを決める。

別にそれはそれで良いし、面白い。実際自分はそうして音楽を聴いていることが多い。

でも、初めて音楽を好きになったときの衝撃には、それではいつまでたっても敵わないんだろうな、とも思う。

 

予測、期待、比較、分析、思考、

つまりは「理性」。

 

アルコールを摂取した状態で音楽を聴くと、どっぷりつかれる感じがするのはそういうことだろうか。

 

また、一度「愛せない」と思った音楽と同じゾーンに分けられている音楽を、無条件で拒否している、ということは無いだろうか?

実際のところ、これに関しては本当に判らない。が、逆は「ある」と即答できる。

好きだと思った音楽に似た音楽は、無条件である程度好きだと言えてしまう。

ならばもしかすると、そういうこともあるかもしれない。そんなつまらないことも、あるかもしれない。

だとしたら、音楽に対して「これはつまらない」と感じるのは「つまらない自分のせい」である。

 

定型化されたことばかりしているな、と感じたのであれば、

「定型化されている」だなんて認識するくらいそういう音楽に触れる前に聴いていれば、好きになっていたのかもしれない。

それはとても悲しい。

 

知識を広げることは良いことだ。

しかし、知ってしまったなら、知らなかった頃には戻れない。

いつの間にかその知識を以ってして「既に知っている何か」を前提にして、でしか音楽を語れなくなっていたら、それは本当にその音楽に対して感じたことだと言えるのだろうか。

自分にはどちらとも判らない。真っさらな状態で音楽を聴けるようなスイッチがあれば良いのに、と心から思う。

 

 

本当に良いものは一握りだ、なんて絶対に嘘だ。皆が愛した音楽はそんな斜陽の世界じゃない。

 

本当は誰だって、全部最高だと思いたいはずだ。

面白い方が、面白いんだから。

残念ながら知識は不可逆的で、もう私達の眼鏡は元の透明なレンズになんて戻らない。

だからと言って、嫌いなものを好きだという必要もない。

しかし、好きなものに対して、胸を張って好きだと言う為に。

また、少しでも好きなものを増やす為に。

嫌いなものにもう一度真剣に向き合ってみるのも必要かもしれない。

そういう話。